最後に
しばらく喪に服しておりました。喪が明けてから少し経つのですが相変わらずのめんどくさい病のため更新が遅れました。
3月24日朝9時過ぎ(正確にいえば午前2時なのですが、死亡確認の都合上・・・)に母親が亡くなりました。
昨年の9月に脳内出血で入院。生命も危ない状態だったそうですが、一命を取りとめました。ただ、脳にダメージがあり腕のマヒも強くなりました。食事の自力摂取が困難になり、このまま看取るのか、鼻から管を通して栄養を摂取するのか、胃瘻を行うのかそれを決めてほしいとのこと。
コロナ禍で面会はずっとできない状態。何をもって決めろというのか。殺生な話だ。
面会をさせてもらえるようになり親族で会いに行く。意外と元気な様子にさすがに看取りはできない。鼻から管を通すのは入所しているホームでは見れないということで胃瘻のを設置してもらうことにしました。
それから会いに行くこともできないまま数か月たちました。で、3月に入りに胃瘻で胃の中に入れたものがすべて吐き出してしまい食べ物が摂取できないと連絡がありました。
医師から説明を聞くと老衰で胃がもう機能していないとのこと。IVHを設置し栄養点滴を行うか、ゆっくりと看取るかどちらかの選択になり。家族一致で後者を選択。
施設の配慮で面会も許可してもらえました。面会に行ったとき目を開けてこちらを一度見てくれました。すぐに眠ってしまいましたが。
寝顔を見ていて、今見ている母親が一番元気な状態なんだと思うと涙が込み上げてしまいました。
母親に迷惑ばかりかけて何の恩返しもできていない・・。
父親の時もそうだった。私がふがいないばかりに。
私も老人介護施設で働いていますので、胃瘻のことや看取りの様子を体験してきました。
水分だけの点滴でも1か月近くは持つかなと思っていました。施設方では一応慰労のチャレンジはしていてくれていました。ありがたい決断です。
しかしながら3月17日に再び嘔吐。もう胃瘻はできないと連絡があった。
その後体調は悪化。施設はどの時間でも面会に来てくれてもかまわないと言ってくれました。本当にありがたい。
私が勤めている施設ではきっと許してくれないだろう。コロナ禍で面会ができず、家族頭いところで事態が進行している。命を左右する選択をしているのだという認識を施設職員は持たなくてはいけない。経験に基づいて家族以上の親密さで接しないと何も手を出すことができない家族の方に申し訳が立たない。
ほんとうにコロナはせっしょうだ・・・。
そしてMTでは卒業練習のあった日の3月23日。柔道へ行く前には状態は安定しているという連絡があった。柔道から戻ると兄から電話。
容態が悪くなった
慌てて施設に行く。そして穏やかに眠るように息を引き取りました。享年87歳(満85歳)
私は、上の姉兄と6歳離れています。私が生まれたころは貧乏の絶頂期だったようでもしかしたら私は生まれてこない子だったそうです。
母親のしつけは厳しかったですが、今となっては怖かったという思いはなく優しかったと思っています。姉や兄に言わすと「おまえの時はそんなに怖くなかったわ」だそうです。
小学生になると私が柔道をなうのですが、当時は子供の習い事に親が顔を出すことはなかったのですが、父も母もよく見に来てくれました。それが縁で先代の宇都宮先生とも親しくお付き合いさせてもらえるようになりました。
私が小さいころはまだ家は貧しかったです。でも母親がその面で辛そうな愚痴などを漏らしたことを聞いたことはありません。母に言わせると「私が小さい時の方がもっと貧しかった」だそうです。
母はどこに行くのも私を連れて行きました。母親自身があまり公共の乗り物を乗れないこともありましたが、まだ小学生の私を頼ることもありました。(笑)
私が小学2年生の時には母親を自転車の荷台に乗せて二人乗りで父親の会社へ行ったりもしました。一度転倒してすごく怒られた時がありました。小2の時の話です(笑)
おっちょこちょいでおちゃめなは母親でした。
正義感が強く、悪意をもって人に接することはなく、世話好きで困った人を放っておけない。見知らぬ人にも気兼ねなく話しかける母親を小さい頃はやめてほしいと思っていましたが、今はよいことだなと思います。私はいまだにできませんが…。
父親が亡くなり家事だけをするようになった母は、孫のためにしょっちゅう姉や兄の家に行っていました。本当にしょっちゅう。私が仕事から戻ると置手紙があり、「堺(姉の家)に行く、迎えに来て」とかいてありました。週に一回ぐらいありました。
孫に対しても優しいだけではなくわが子に対してのように責任感をもって厳しく接していました。孫たちは全員そのことに感謝していました。
また、しょっちゅう家の周囲で近所の人と話していました。きっと近所の空き巣被害軽減に貢献していたと思います(笑)
近くを通る子供たちにも目をかけていたと思います。小さいころ私が口ずっぱく言われたことを言っていたと。 ごみを捨てたらあかん。持って帰って家のごみ箱に捨てや。
胸が切なくなります。
施設に入ってから数年。1年間はコロナで会うこともできない。母が亡くなっても私の普段の生活には変化はない。年齢も年齢でしたので覚悟もできていました。でもやっぱり心がぽっかり穴が開いた感じがします。
母にも父にも迷惑をかけた。ろくに恩返しもできていない。安心させられる姿を見せてはあげられなかった。施設に入れて本当に良かったのか。柔道のことでは楽しませてあげられたかな。
こっちが「母は幸せだった」思わないとやっていけないよね。
今後母のことを書くことはまずないでしょう。
母のために最後に
感謝。