ミスタートンの思い込み

ミスタートンが、日々の思ったことをぼやきます。愛車については語ります。

指導者とは

世間を騒がせているアメフト問題。誤解を恐れず語ります。

今日の加害者学生の会見を心で涙を流さず見れたスポーツマンや指導者はいないはず。最近では比類がないほど清々しく痛快な会見でした。

所属チームの監督、どこぞの市長、エリート官僚、どこぞの首相、この会見を見て心が痛まないのか?〇ャニーズの打算的な保身が見え見えの会見とは大違いだ。彼はすべてを擲って(なげうって)いる。

当然、彼にも「自分の身を守るため言うべきことは言わないと」と云う思いはあっただろう。包み隠さず誠実に話そうとする姿勢が潔かったが、恩ある指導者に対して完全に悪者にできない戸惑い、自分のしたことへの罪悪感もありいろいろな思いがあった。

そう、一言では語れない。マスコミは監督のせいにしたがっているがそんなに単純ではない。外野が一言で片づけられるはずがない。

彼は、高校まではきっとアメフトが楽しかったんだと思う。そして日本一だけを狙う大学に入った。しかしそこの空気が合わなかったのだ。

勝利至上主義。異様なまでの。日本一を狙う弊害だ。

えぐいことをやれと言われて少しずつ純粋に楽しめなくなった。そこを見透かされ、気持ちの優しさを指摘され厳しい扱いを受けた。しかしながらそこには指導者たちの期待もあってのことと思われる。

私も今までになんどか「殺す気でやれ!」なんてことを言ったことはあります。いつもワンパターンで語気を強め選手を叱咤罵倒いたします。もっとも柔道はもともとが相手を倒す武道なので、こちらが殺す気になっても相手のほうが強いと当然返り討ちに会います。痛めるだけの技もありますが、そんなものを入ったら当然私だって止めて叱ります。相手がしてきても止めさせます。

この学生の指導者は、「潰してこい」といいました。そこまでは「そんな気持ちでやればいいのか」と思えるかもしれない。しかし学生の会見では、指導者たちが「今潰せば秋の公式戦で有利になるだろう。責任はとるからやってこい。」みたいなことを言ったようです。(何も責任を取らず、責任逃れをしてうやむやにしようとしていますが。)

この監督は、長年日本一をかけて争ってきた対戦大学の名前を今更ながら間違えていたそうです。倒すべき相手だけであってそこには敬意のかけらもない。結果だけの勝利至上主義。だから、手段を択ばず相手に危害を加える行為ができるのだ。戦争なのだ。

きっと社長とか稼いでいるような人はみんなこんな人なんだろうな。俺にはできない。指示すらできない。

監督は自分さえよければいい輩なんでしょう。

自分がよければいい。自分の家族がよければいい。自分のチームがよければいい。せいぜいここまで。他は排除。そして最後は自分がよければいいに戻る。

昔の武将なら、人を殺すまでは一人前じゃない。人を殺せないから甘いんだ。そんな考えがあったのかもしれない。そう思って選手を育てようとしたのだろうか?ついでに相手の戦力もダウン。本気で言っているのか?日本一って戦争か?「そんな甘い気持ちで日本一になれるか!」って言われたら、中途半端な俺はならなくてもいいと思ってしまう。

この選手の会見には、コーチの名前もよく出てきた。高校時代からお世話になっているそうだ。このコーチを悪く言いたいんじゃなくて彼にはそのコーチしかいなかった。でもその人も大学日本一を目指すという大きな波に飲み込まれた一人だろう。

確かにこのような勝利至上主義で己を殺しえげつないことを行うことですごい選手になれるかもしれない。日本一にもなれるだろう。それはかけがえのないことだし、素晴らしいことだろう。ほとんどの人が、何も事情を知らなければそれが素晴らしいことというだろう。過程が大事なんて言うのは負け犬の遠吠えだと思うだろう。わたしも結果は大事ということは否定はしないしそれを否定するのはやはり負け犬の遠吠えと思ってしまう。勝つということは最大のモチベーションだし、勝ってからモノを言えたらそれが一番格好いい。

でも彼はアメフトが嫌いになってしまった。

少年柔道でもよく似たことを見たことがある。日本一を目指すというチームに入り、親も必死で気違いじみたバックアップをして全国大会で上位に入った。が、その子は小学校で柔道をやめてしまった。小学校だよ。まだ何も始まっていないのに。

逆に勝利至上主義から勝てばいいんだろということになり、素行が大変悪い柔道家も大勢みてきた。彼らは、社会生活になじめないか又はなりふり構わない経営者として名を馳せるかもしれない。

指導者は、そのスポーツを嫌いにさせてはいけない。

環境によって大事なものも変わる。個人の性格でも。結果、過程、何をしても勝てばよい、正々堂々と負ける、己を殺しチームプレイに徹する、個性を伸ばす、協調、独断、精神を鍛える厳しい練習、肉体を鍛える科学的なトレーニング・・・何が正しいのか。なにが合っているのか。結果が残せたから幸せなのか?楽しめたから幸せなのか?それはわからない。ただ自分が決めたことは後悔したくない。

私は、何もわからない。何が正しいなんてこともわからないし、ましてや人を導くことなんかできない。そこまで自惚れることはない。

指導者としての理念。あそこまでひどくはないにしてもあの監督のすべてを否定はできない。私の理念は何だろう。

人として間違ったことをしない。でもそんなものは国や人種や宗教によって大きく変わる。

一つ目。やはり柔道は、精力善用自他共栄だろうか。精力を最大限に良いことに用いる。良いこととは何か?それは自分も他人も栄えること。

これは普段の稽古から生まれたことであるから。まずは、練習は一生懸命行うこと。与えられ時間は無駄なく必死で行うこと。多数の他人と栄えることはできないから、とにかく目の前の相手。その相手を思いやる気持ち。

練習相手。対戦相手。

練習ではお互い高めあうために相手を大事にし意思疎通を図る。試合では、同じ場に立っている相手のこれまでの努力に敬意を表し全力で対戦し相手を貶める行為はしない。

二つ目。こちらは世界共通だと思う。

理由もなく相手に害されない権利。当然、理由もなく相手を害してはいけない。これの徹底だ。

まずはこの二つの教えを守り、柔道を嫌いにならないように指導する。そして結果が残せれば最高だ。「労は少なく獲物は最上を狙え」という邪な考えも持っていますので。

失格指導者のたわごとです。